架空 X X マッサージ日記





第一話 3月18日

俺は裕太、18歳、広島から東京にやってきて、これから大学生活がはじまる。インフルエンザがはやっているので、外にはマスクをしている人が多い。

そういう自分もマスクをしていて、マスクをするとなんとなく顔痩せをするから、これはこれでちょっといい。

京王線に新しい部屋を借りて、入学までの間、渋谷や新宿や、原宿をめぐって服を買ったり、週末の夜は二丁目にでてみたりする。

まだ友達らしい友達もいなくて、 Xで繋がってる人と御飯を食べたり、二丁目で一緒に飲んだ人をアプリで探して連絡したり、また遊ぼうね、って言ってそのままだったりする。

念願の東京なので、毎日がそれなりには楽しいし、見るもの全部新鮮だし、かっこいい人多いし、オシャレなカフェもたくさんあって、ネットでみているだけでも楽しくなる。

自分のマンションはけっこう古いタイプで、フローリングはあるんだけど全体的に昭和の雰囲気が漂っている。というか昭和…

今日は、新しいバイトでも探さなきゃと思って、iPadでいろんなサイトをみてたんだけど、時給も1000円ちょっとだし、やりたい仕事じゃないし、なんだかな〜って感じ。

1時間働いても、ゲイバーで1杯も飲めないのか〜

なーんて思ってたら、ゲイマッサージの求人をXでみつけた。

高額時給、自由シフト、モザイクで身バレなし

わりと都合のいいことを書いてあるし、都合よく見つけてしまったので、ほんとかな〜 と思いつつ、どうせアプリやハッテン場でHするんだし、タイプじゃない人に妥協して抜いてもらうこともあるし…  これはこれでありだな、と思って、ちょっと頭の片隅において、今日はカレー🍛をつくることにした。

レトルトだから、誰があたためてもおいしくなる。イケメンがあたためても、普通の人があたためてもおいしくなる。もしかしたら普通の人があたためたら、ちょっとだけおいしくないのかもしれないけど、たぶんちょっとだから気づかない。そんなふうにできている。

出来上がったカレーを食べながら、人の心も、もしかしたらそれくらい簡単なのかも知れないなー、そう思いながら食べた。

3月28日

この日は土曜日で、アプリで知り合って1度だけ遊びに行ったダイちゃんとダイちゃんの友達と飲みに行く約束をしている。ダイちゃんの友達は前にあったのに、名前は忘れてしまった。

ちょっと覚えにくそうな名前のほうが覚えていて、同級生にいたような馴染みのある名前のほうが意外とでてこなかったりする。

あとちょっとで思い出しそうなんだけど、そういう時は絶対にでてこない。

そもそも、名前をきいたかどうかもわからない。でも、失礼なので、向こうから名前がでてくるのを待っていたりする。

きっと向こうもこちらの名前を忘れていると思っていると、しっかり覚えてくれていて、いよいよこれはヤバいぞと思ってしまう。

タイプの名前は覚えているのに、タイプじゃない人の名前は覚えていない。

こうして「BIRDS」でダイちゃんと名前のわからない友達と飲んでいると、その時がやってきた。

「裕太くんは、アキマサのタイプってどんなのだと思う?」

マサアキかマサユキだと思っていたからおしかった。いいとこまでいっていた。心の中で半分だけやった!と思う。

「アキマサさ〜 今度GOGOやるんだよ。この身体でっ!」

アキマサくんの身体はたしかにいい身体だけどどこか緩い。自分が言えるような身体じゃないのに、他人のときだけそう思う。もっとも自分はそんなガラじゃないから、はじめからやろうと思っていない。アキマサくん本人もちょっと緩いのはわかってて、だからジムに行ってる。鍵束にエニタイムのキーがついていて、NORTH FACE のリュックにはジム用品が入っている。本当に自信のあるGOGOはGGに通っている。一周まわってエニタイムに戻ることもある。

みんな自分の居場所をみつけている。自分の居場所はどこにあるんだろう、って考えると、きっとここも居場所の一つだけど、ここではないもっとしっくりくる場所が他にあるような気がする。

ダイちゃんは短髪でスウェットが似合う秋田男児で肌がとても綺麗だ。ダイちゃんの居場所もどこか他のところにあって、自分たちは、その居場所が今日はいっぱいか、失ってまだ見つかっていない時だけ、こうしてお互いに会ってなぐさめあってる。

帰りの電車の中で、自分の居場所を探そうと思って、スマホを見ながらバイトを探していた。いくつかの停車駅で人が降りたり、乗ったりした。各駅停車だったので1時間くらいかかった。その間、ゲイマッサージの応募欄を閉じたり開いたりした。

駅からの帰り道、コンビニでお金をおろした。コーンパンと牛乳も買った。コーンパンは小さな幸せをくれる。今日の店員はイケてるナカムラくんではなかった。タイプだから名前を覚えている。なんだったら下の名前までフルネームで覚えてしまう。部屋の鍵をあけると、まだ引っ越して間もない、見慣れていないけど安心できる空間があった。どこかよそよそしい、でも親戚の叔父さんと似てる人みたいな感じ。そう考えると、この部屋がおっさんに思えてきて、小さな幸せを浸食されそうだったので、ナカムラくんのことを考えた。

荷物を置いて、シャワーを浴びる。冷蔵庫からさっきの牛乳とコーンパンをだして食べる。お酒を飲んだ後のコーンパンはおいしい。自分はゲイマッサージの画面を開いて、応募の送信ボタンを押した。

押してから、応募する前に予約をしてみたらよかったな、と思った。



第二話 3月29日

翌日、ネットで気になっていたゲイマッサージを予約してみた。応募をしたところにすればよかったのに、後からバレるとちょっと恥ずかしいと思ったので、全然関係ないお店にした。

まだどうなるかわからないし、応募して落選かも知れないのに、合格をもらう前に、職場体験をしておくべきだと思った。

もしかしたら、素人として受けるのは最後かも知れないので、タイプじゃない人でマッサージバージンを失うのだけはダメだと思って、一番タイプの、いや、二番目にタイプのお店にした。

一番タイプのお店は、かっこ良すぎて、なんだか気がひける気がした。自分は、いつも理想より安全をとるタイプだ。だから大きな失敗もしないけど、大きな成功もない。むちゃくちゃタイプの人にお通夜の白布をとるみたいにバスタオルを取られてシゴかれるよりは、そこそこタイプの人にルームサービスのシャンパンをあけるように楽しく抜いてもらいたい。

パンツはUNIQLOの新しいのをおろしてはいた。もっとかっこいいのもあったけど、はじめてなので、攻めすぎないほうがいいと思った。いかにも真面目で、間違えてきてしまったノンケかも知れない、でも、ノンケがくるわけがないから、まだ自覚のないホモかも知れない... そういう人を演じるつもりだ。

◯◯かも知れない、はちょっとした時に人生をおもしろくしてくれる。

やったことがある / かも知れない

好き / かも知れない

将来、付き合う / かも知れない

バリタチ / かも知れない

当たり / かも知れない

初台で降りて、小雨が降ってきたので、ちょっとはや歩きで歩いた。Googleマップは時々道とは言えないような小さな路地も経路に表示する。猫しか歩けないような建物と建物の間や、雑草の茂ったお墓の中を通ったりする。

どこかの庭の草の匂いがした。雨に濡れた土と、雑草の緑の混ざった匂いだ。そして、白とベージュ模様の猫がいた。素早く草と草の間の空き缶を乗り越えて、塀の向こうに消えて行った。

その隘路を過ぎると、戸建ての家があり、全裸のおじさんが水やりしていた。目と目があったが、全裸のおじさんは全く意に介していないようだった。

Googleマップが示しているマンションは、その向かいだった。

ピンポンを押す。

赤い傘が目印の部屋だから間違いなかった。押してしばらくすると、グレーのドアが開き、写真よりも爽やかでタイプの人があらわれた。

- こんにちは 予約の方ですね

- あ、っはい。よろしくお願いします。

- こちらへどうぞ

部屋はモデルルームみたいに静かで綺麗だった。トイレとバスルームはセパレートで、普通のサロンみたいだった。普通ってなんだろう、そう思いながら、シャワーを浴びて、置いてあった真っ白なバスローブを着てみた。でもそれは、ホテルにあるのとは違って、ちょっと丈が短かったから、なんだか一休さんみたいだった。

うつ伏せになり、静かに息をした。90分後、シャンパンみたいなオールアウトをしていた。心地よくてすぐに寝てしまい、気がつくと、仰向けになって、乳首を舐められていて、あっというまにオールアウトしていた。

プロって、こうなんだ、って思いながら、またシャワーを浴びた。短い出家がおわった。


帰りがけ、自販機でジュースを買いながら、身体が少し軽くなっていることに気づいた。でも、少しだけだったから、マッサージってもっと軽くなるものだと思っていたので少し期待ハズレだった。でもスッキリしていたから、いいかな、と思った。階段を降りると、全裸のおじさんはもういなくなっていた。

- あそこの人、いつもなんですよ… 裸族が住んでるんです

お店の人が言っていた。裸族の住む家、の向かいのゲイマッサージ、なんだか、そういう童話がありそうだった。

自販機にSuicaをタッチすると、雷みたいな音とともにジュースが落ちてきて、携帯の通知が鳴った。着信音は、雨に唄えば だった。

[ご応募ありがとうございます。THIRD の逢坂です。よろしければ面接をしたいので、ご連絡ください。お待ちしております。]

それは、ちょっとした 当たりの、通知だった。



第三話 4月06日

入学式の前日に、ゲイマッサージの面接を受けることになった。4月6日、月曜日。午前中、散髪屋で髪を短くして、GIカットにした。無精髭も剃ってもらった。鏡をみて、2週間ぶりに人前にでれる外見になった。カットした髪の寿命は短い。1週間もしないうちに好き放題荒らされた荒野か、誰も水を変えていない水槽の藻のようになる。だから、ちょっと面倒だけど、隔週で散髪に行くことにする。面倒だけど。

散髪をした後のお昼の電車は空いていた。ガラガラだったけど、少しカッコイイ人が乗っていた。格闘技をしてそうな隙のない男っぽい顔で、筋肉質な太腿がスウェットから浮き上がっていた。そして、自分とその人の間に、もう1人、その人に釘付けのサラリーマンがいた。たぶん、俺のライバル。

その人は、俺の存在に気づくと、今度はずっとこちらを見ていたので、自分はカッコイイ人のことを見れなくなってしまった。なんとなくついてない。不可抗力… 月曜日は嫌いだ。

面接の駅に着くと、時間が少しだけあったのでトイレで最終チェックをした。こうしている間にも、髪は0.00001ミリずつ伸びている。この世の中でじっと変わらずにあるものはない。昨日までのルールが、今日も正解とは限らない。自分自身も、どんどん別人になっている。

時間が来たので、1階に降りて、スタバに入った。ゲイだ、ってすぐわかる人がいた。面接がはじまった。

- こんにちは逢坂です。飲み物、一緒に頼みに行きましょう!

逢坂さんは、30代半ばくらいのイカにもな人だった。カウンターでアイスティーを買ってくれた。本当はフラペチーノが飲みたったけど、驕りだし、面接だし、初対面だし、ちょっとイケるし…  緊張して言えなかった。逢坂さんは、お腹すいてない? って聞いてくれたけど、このシチュエーションで、何か食べる人なんているのだろうか?

テーブルに戻り、逢坂さんの胸筋の膨らみをみていると、股間が盛り上がりそうだった。腕も太く、鍛えているのだろう。自分は、かっこいいだけではアガらなくて、かっこいいに優しそう、がはいると惚れてしまう。逢坂さんは優しそう、が感じられる人だった。

- 緊張してる? するよね?w

言われるまでもなく緊張していた。ポーっとしながら、聞かれることにこたえていた。もしかしたら変なことを言ってしまったかも知れない。逢坂さんは、時々、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。

- 人生の目標って何かな?

そう聞かれた時、人生の目標って考えたことがなかったな、と思った。もっと月いくら欲しいとか、シフト何日入れるとか、そういうことを聞かれると思っていた。

- 副業でも、この仕事が人生や人生の目標に対して、どんな役に立つか、必要なのか、知っておいて欲しいんだ。きっと、必要だから今日ここに来た。それがお金でも、経験でも、本能的に今の自分や、自分が目指す何かにとって、ゲイマッサージって選択が有意義で必要だからここに来た。そんな難しいことじゃない。裕太くんは将来、どんな幸せを目指していて、この仕事はそのためにどう役に立つかな?

僕は真っ白になった。そして、咄嗟にこうこたえていた。

- 自分は、自分の居場所が欲しいんです。どう役立つかはわからないけれど、友達とか、自分を認めてくれる人とか、そういうのが欲しいんです。

逢坂さんは、合格、今までで一番いいこたえだ、と頷いて、具体的なことを話しはじめた。学業優先主義の逢坂さんは、5月からのデビューをすすめてくれた。それまでにマニュアルを読んでおくように渡された。

こうして、平凡な田舎から上京したての俺は、ゲイマッサージになることが決まった。



世界は秒速で変わっている。俺も、俺以外も。

面接に合格してから、入学式を終えて、部活やサークルの見学デーに校内をまわることにした。

いくつかの部やサークルをまわって、アメフト部に入部を決めた。

それも、自分の居場所探しだったのかも知れない。

完璧な大学生がいないように、完璧な居場所もない。完璧なゲイマッサージも。

4月25日 土曜日

この日は、マニュアルで覚えたマッサージテクニックがちゃんとできているかお店でテストをする日だ。

自分の足や、枕を身体にみたてて練習したけれど、人の身体を揉むのははじめてなので少し緊張する。

それだけでも緊張するのに、逢坂さんと2人きりで裸の逢坂さんを揉むなんて、ちゃんと X Xせずにできるか不安だった。

リフレッシュも練習するのだろうか… !?

パンパンに張った太腿の間に、どんなものがあるのだろうか…!?

シャワーを浴びて、バンフォードのジェルで身体を洗う。ゲイのバスタイムは妥協できない。汗を流し、男らしさを装備する。歯を磨き、髭を整える。筋肉の張りを確認して、小さな綻びも許さない。ミラーの傍には、洗ったエネマグラが置いてある。

アンダーアーマーのパンツをはき、Tシャツを着る。チノをはき、アウターを着る。

完璧なゲイもいない。完璧なノンケがいないように。

そう考えながら、電車に乗って新宿のTravisの 施術ルーム にきた。

インターフォンを押すと、逢坂さんがでた。あいかわらず素敵な笑顔だった。シャツを着ていてピシッとしていた。

- お疲れ様です! ちょっとはやく着いてしまいました。

- 待ってたよ。どうぞ!

ルームはコンクリート打ちっ放しの、簡素だけどモノトーンで落ちついた部屋だった。コンクリートの灰色と、インテリアの白があっている。清潔感があり、1枚だけ印象派の絵画が飾ってあるのも不思議と調和していた。

唯一、木目調の本棚には、写真集やマッサージの本、洋書やたぶん読まれることのない風景と化した装丁の美しい本が並んでいた。

もし、部屋の真ん中に施術ベッドがなければ、ここが誰かの部屋かAirbnbのホテルであってもおかしくはなかった。

部屋の中で、自分の身体から香るバンフォードの匂いが、緊張で透明になりそうな気持ちをかろうじて支えていた。

- もうすぐ今日の練習台が来るからそこの椅子に座って待ってて

申し訳なさそうに隅に置かれた白い椅子とテーブルには、深いブルーボトルのミネラルウォーターが置かれていた。

少しの沈黙が、俺を気恥ずかしくさせた。このままここで、逢坂さんに抱きしめられて何かがはじまるんじゃないかと妄想すると、鼓動がはやくなった。

逢坂さんの X Xが、仮性なのか、ムケてるのか、、太いのか、長いのか、そんな妄想もしてしまった。

死にたい、、

逢坂さんがトイレに立つと、ほぼ同時にインターフォンが鳴った。逢坂さんは閉めたばかりのトイレの扉を開け、鍵開いてるから中に入ってー と言った。

玄関の扉を開けたのは、ラグビーでもやってそうな背の大きな、屈強なガチムチの男で、逢坂さんの紹介によると、自分より少し歳上の大学2年生 ゲイマッサージをはじめて1年の豪士さんだった。

- はじめまして! 豪士です。よろしく!

豪士さんは1学年上なだけなのにどこか大人の余裕があった。なんて言うか、童貞と非童貞っていうか、中学生と高校生っていうか、圧倒的に自信があって、人に優しい感じだ。つまり、隠キャではない。ゲイなんだけど、ノンケっぽくて、タチっぽくて、男らしいのに、エロさ? があって、マッサージやってるとこんなふうにかっこよくなれるのかな… と思っていると、好敵手を見つけたようにやや隠キャの雰囲気を漂わせながら、トイレから戻ってきた逢坂さんが

- あっ、こいつバイだから惚れないようにな 笑 苦労するぞ

って茶化してきた。豪士さんも

- 新人になんてこと言うんですか 俺は逢坂さんみたいな歳上に興味ないだけですよ… 歳下には優しいです

ってこなれた会話をしていて、俺はどっちもイケるから、2人に何かあったのだと思うと、変な妄想をして顔が真っ赤になってしまった。そして同時に2人に対して行き場のない嫉妬をしてしまった。

嫉妬はたぶん余計な感情だけど、コンクリートの部屋の中に、突然、親密な空間が広がって、なんだか照れくさいけど、晴れた日の雨のようにとても心地よかった。

ここがジャングルだったら叫んでいたかも知れない。ジャングルには間違いなさそうなのだけど。

豪士さんは

- 逢坂さん、俺とりあえず全部脱げばいいんですよね? 

と言っておもむろに服を脱ぎだし、はちきれそうな腕や、太ももを不器用そうに操って脱ぎはじめた。その動物的な所作は、大胆で、あまりにも無造作で、性的配慮がなさすぎる点が男らしくて魅力的だった。部室や男湯で、ノンケの男が見られる側にまわることを全く意識もせずに大胆に脱ぐ脱ぎっぷりそのものだった。

 X Xの皮は7割被っていた。絶対に先走りが多いタイプだと思った。

脱いだ後で残像を思い浮かべると、少し灼けた肌と隆起した筋肉に、ビルパンなのが、殺意を覚えるほどかっこよかった。

しかし、それが残像なのか、残像ですらなく、妄想だったのか、速い動悸を感じていた自分には、全く定かではなく、バンフォードの香りがなければ存在ごと消滅してしまいそうだった。

アラサーの逢坂さんも脱ぐ。逢坂さんもなかなか良い体だ。グレーのボクサーブリーフで、その脚も、紺のTシャツからはみ出る腕も、セイジさんに負けていなかった。

逢坂さんは笑いながらセイジさんの脚を引っ張り、ちょっとイタズラっぽいことをしてオイルを手にとりはじめた。

そうした親密さは、ずっと自分の中で失われていたもののような気がして懐かしかった。

人は失うまでわからないが、失ったことさえいつか忘れてしまう。

逢坂さんは、ゆっくりとセイジさんの脚に手を置いて絶妙の圧をかけながら滑らせていった。

世界がゆっくりと動きだしている気がした。

巨大な亀の上に象が乗った古代インドの神話のように、自分が乗った世界がゆっくりと歩きはじめている気がした。

音もなく、ゆっくりと。

鳥たちはそんなことも知らずに唄い続け、雨はどこでもない場所に降り続け、やがて、見たこともない爽快な虹がこの世界の上にかかる気がした。

俺は、逢坂さんの手の動きをじっとみていた。そして不意に豪士さんの顔に目をやると、豪士さんは間違いなく、少し感じているようだった。絶対に悟られないように、普通を装いながら、かすかに感じていた。間違いなく、感じていた。そして、俺は気づいた。逢坂さんがタチで、豪士さんが逢坂に惚れている側なんだ、ということを。

苦労をしているのはきっと豪士さんのほうだった。女も愛せるのに、わざわざゲイのマッサージオーナーに惚れてしまったこの人が見ている景色は、きっといい匂いがして、それなりに素敵なんだろうなと思った。



第四話 4月07日

俺たちの生活は、起きたことではなく起きなかったことの上に成り立っている。

今日も地震はなく、飛行機は落ちず、誰かに刺されることもなく平凡な1日を暮らしている。

起きたことには注意がむくが、それと同じくらいたくさんの、いや、それよりもはるかにずっとたくさんの 起きなかったこと、には あまり意識を向けない。

そこにいたイケメンには、意識を向けるが、そこにいなかったイケメンには意識は向けない。本当は、5分、時間がズレていたら、出会っていたかも知れないのに。

逢坂さんと豪士さんの研修を受けた後、2人はドア越しに俺を見送ってくれた。ドアが閉まるカチャッという開閉音と同時に、重なるように別の、とても親密な絡みつくような音がした気がしたが、それは起きたことと、起きなかったことの間にあった。少なくとも、その扉は、真実をどちらでもない世界に置き去りにしていた。

2人は、着替えてまだ暖かくも肌寒い外のストリートを別々に歩いて帰ったのかも知れなかったし、衣服を脱ぎ、誰もいなくなった部屋でお互いの体液を飽きるまで交換し合ったのかも知れない。それらの世界は等しく同時に存在し、また同時に存在していなかった。

帰り道、小さな火事に遭遇した。坂道から少し離れたところに炎と煙が上がっていた。人の営みから離れた生活をしていた自分にとって、その火事は無性に何かをひきつけるものがあった。

少し早歩きで火事に近づいて行く。鼻腔に煤のような灰色の匂いがつく。全ての営みが燃えてなくなる無常の匂い。

近づくと、たくさんの消防車がとまり、短髪の消防士達がホースを握って放水していた。逞しい筋肉と精神が躍動し、自然の力と男達の力が拮抗していた。普段は人気のない無機質なマンションやアパートにも、たくさんの人影が見え、まるで何かのアトラクションか、ページを捲るたびに背景にたくさんの影絵が重なる仕掛け絵本のようだった。

大勢の人達がその場所でひとつの出来事に関与していた。その中心にあるのは紛れもなく炎だった。

火事をみていると、なぜかムラムラとした。それは我慢していた欲望か、今、沸き起こったものかわからなかったけれど、黙ってその場を立ち去り、足ばやにメトロに乗り、駅から近いクルージングスペースの階段を上がった。

受付で支払いを済ませ、洞窟のような狭い迷路の暗闇に入って行く。無数の扉の向こうでは肉を打つ激しい音と床の軋む音が重なって聞こえる。通路には漂白剤のような精液の匂いが立ち込め、相手を探す人影がいくつもの灯籠のように、薄闇の中に並んでいた。しかし、その身体に明かりを灯すべき灯火人は既に個室の中で最後の火箸を五徳に突っ込んでおり、残った灯籠達は、ただ次の灯火人が訪れるのを寡黙に待っていた。

俺は、適当な1人を選んで、押し倒し、髪の生え際に息を吹きかけ、五徳をろくにほぐしもせずにかき混ぜ火をおこし、自分だけ 追い込みの高速ピストンX Xしてシャワーを浴びて暗闇をでた。神聖な雨を浴びながら最低だと思ったが、妙にすっきりとしていた。

これからやろうとしていることも、そういうものかも知れない。服を着ていると、何度かさっきの『汚い壺』から視線を感じたが、黄泉の国から逃げるイザナギのように洞窟を後にした。もし男神であれば、天沼矛(アメノヌボコ)で何を産み出すことができるだろう。

スマホを見ると、LINEが届いていて、豪士さんからだった。

 - お疲れ〜 さっき逢坂さんとゆうたくんの歓迎会をしようって話してて、次の金曜日の夜って空いてる? 焼き鳥か焼肉になると思うんで、一緒に飲もうぜー。他のメンバーも集まるから20人?はくるよ👍

日は浅いが、知っている人に優しくされて安心した。気がつくと、疲れからか手が微かに震えていた。

起きなかったことよりも、起きたことを大事にしよう、そして、これから起きることと、起こすことに気持ちを向けようと思った。

階下の沖縄料理店からは、沖縄民謡のてぃんさぐぬ花が流れていた。


ホウセンカの花は
爪先に染めて
親の言うことは
心に染めなさい

天上に群れる星は
数えれば数えきれても
親の言うことは
数えきれないものだ

夜の海を往く船は
北極星を目当てにする
私を生んだ親は
私の目当て(手本)だ

宝石でも
磨かなければ錆びてしまう
朝晩心を磨いて
日々を生きて行こう

正直な人は
後々いつまでも
願いごとが叶えられ
永遠に栄えるだろう

何事も為せば
成るものではあるが
為さぬことは
いつまでも成らない



つづく